「日本スキー発祥記念館」訪問記 ・ 日本スキー100年の歴史
    (レルヒ少佐に会う)



クリスマス間近、雨が降りしきる上越に行ってきました。
一週間前には雪が降ったそうで、街の至る所に除雪後の雪山が道路わきにできていました。しかし、この日は雨模様、気温も14℃です。
今回はスキーが目的ではありませんでしたので、快適ドライブで東京から4時間弱で上越市に到着です。
用事を済ます前に、「日本スキー発祥記念館」に立ち寄りました。ちなみに目の前の”金谷山スキー場”には雪が全くありませんでした。

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今シーズン(2010/2011)は、日本のスキー界にとっては、記念の年になります。
レルヒ少佐がアルペンスキーの元祖となるスキー技術を日本人に指導した年から100年目になります。
”レルヒ少佐”ときけば、スキーの指導員検定を受験した人は、名前を思い出すでしょう。
1911 年(明治44年)1月12日、”テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐”が、日本陸軍第13師団歩兵第58連隊の将校に対して、初めてスキー指導を 行ったのです。そんなことを微かに思い出しながら、記念館に入りました。料金は大人300円、上越市が運営しているようです。私にとっては、スキーの歴史 再認識で参考になりました。

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さて、レルヒ少佐がなぜ日本でスキー指導をすることになったのでしょうか?
レルヒ少佐は今のオーストリアの軍人で、「なぜ、小国の日本が大国のロシアに勝てたのか(日露戦争のこと)?」を調査するために、日本の軍隊の視察に訪れていたのです。そこで配属されたのが、上越の高田にあった先述の陸軍第13師団歩兵58連隊でした。
と同時に、日本陸軍も歴史上の悲劇である”八甲田山での出来事”の反省点として、「もし、スキー技術を習得していたらあの事故は避けられただろう。」と思うのでした。そこで、日本陸軍はレルヒ少佐に「我が軍にあなたのスキー技術を教えてくれないか。」と頼むのでした。
レルヒ少佐は、”リリエンフェルトスキー術”を考案した”マチアス・ツダルスキー”の弟子であったことが、日本にとっては幸運だったでしょう。それを説明するには、もう少しスキーの歴史を話す必要があります。

マチアス・ツダルスキーは、「今のスキー(ノルディックスキー)は平地での滑走には適しているが、山岳スキーには適さない。」と思い、スキーの道具から山岳スキーに最適なものを考えたのです。

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2mもあった長いスキーを短くして、1本棒のストックを持つようにします。また、ビンディング(スキーとブーツの固定金具)は、金属製としてかかとが浮くようになっています。この段階では、スキーのエッジは木製であることがわかります。

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革製のバンドでブーツを締めつけています。雪がブーツに入らない様に脚絆(きゃはん)を付けています。

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ツ ダルスキーは、リリエンフェルトの街にこもって、雪の山岳を安全に滑り降りる方法を考え、それが現在のアルペンスキーの元祖であるリリエンフェルトスキー 術となるのです。その最新のスキー技術をレルヒ少佐も習得していたので、まさに指導された高田隊の将校たちは最新テクニックを身につけたと言っていいで しょう。

レルヒ少佐は、スキー専修将校を選抜して、彼らにスキー指導を行います。いわゆる、スキー指導員の育成です。レルヒ少佐は、指導プログラムを段階を経て実施していきます。スキー技術の他、スキーの楽しさも教えたと言うことです。
選 抜された将校たちは、初めてのスキーに挑戦することで、最初は悪戦苦闘したことでしょう。「外国から来たスキー指導者に弱音を吐いているところは見せられ ない。」の軍人魂があったようで、転倒しても雪に埋まってもスキー技術習得のために頑張ったそうです。ここは、我々スキーを上達したい者が見習いたいとこ ろですね。
しかも、驚くことにレルヒ少佐は、彼らの指導に情熱を持ち、彼らのスキー道具一式を自費で揃えてくれたそうです。

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レ ルヒ少佐が指導したリリエンフェルトスキー術は、”雪山を安全に滑走する技術”を基本して考えられていますので、基本はプルークの姿勢(スキーの板がハの 字)であり、制動が優先でスピードも遅いものでした。ですから、スピード制御できなくなる前に山側に転倒して停止することもテクニックの一つになります。 スピードが遅いですから、上体も立ったままで、斜面を滑るときには後傾姿勢になり、ストックで支えることを勧めています。
そのスキー技術を分かりやすく、左右のスキー板に対する加重配分を説明している分解図がありました。
停止する場合には、山側のスキーに加重配分を多く取っているのが分かります。谷側のスキーはずらし操作になります。

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一方、ターンに技術においても山側のスキーに加重配分を多く取り、谷側スキーをずらすことでターンのきっかけにしています。
谷側のスキーが最大傾斜線(斜面下)に向いたときに、左右の加重切り替えを行っています。
なんと、この技術は今の”内足主導の切り替え動作”に似ていませんか???
100年も前にターンのしやすさ(コツ)が分かっていたのです。

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そして、日本のスキー普及にはもう一人の人物がいます。
第 13師団長の”長岡外史中将”です。長い冬の間を雪に閉ざされた上越、スキーこそが大衆に体力と気力を与えられるスポーツだと思い、レルヒ少佐に一般の人 たちへのスキー指導を依頼するのでした。そして、レルヒ少佐は、将校夫人や学校の教師に対してスキーを指導し、そして彼らが子供たちに普及させていくので した。この考えは大当たり、スキーは急激に普及していきます。

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ということで、この上越(高田)では、スキー文化のさきがけがありました。
スキー教本も既にあったのですね。

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さて、日本のスキーの歴史は、このあとの”ハンネス・シュナイダー”の滑りで新たな技術のステップを迎えます。
そうです、菅平高原スキー場、野沢温泉スキー場にも彼の名前のコースがありますね。
彼はスキー技術にスピードを持ち込みました。すなわち、前傾姿勢に寄る立ち上がり・沈み込みのクリスチャニア技術です。
まさしく、1970年代はこの技術がベースとなり、その後オーストリア国家スキー教師の”クルッケンハウザー教授”のバインシュピール技術につながっていきます。

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「日本スキー発祥記念館」では、その他にもスキー道具の歴史も展示してありました。
革製のスキーブーツ、懐かしいです。

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そして、記念のお土産は、スキー歴史の写真集とレルヒ少佐の記念バッジです。
また、無料のペーパークラフトがあり、もらって組立ててみました。

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2011年には、色々な行事が執り行われるようですので、スキー旅行のついでにどうですか?

・ レルヒ祭  レルヒ祭

                                                        2010年12月26日記述

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